:: facebook
:: 項目別記事
:: これに注目!「富良野の文化財」
へそ岩
  • へそ岩
  • :: ここに注目!「自然散策ポイント」
    ラベンダーの森・ハイランドふらの
  • ラベンダーの森・ハイランドふらの
  • :: トップページへのリンク
    読みもの・コラム : 10月26日 忠霊塔と空知橋の落下(コラム「今日はなんの日」)
    投稿日時: 2021-10-26 8:30:00 (229 ヒット)


    10月26日
    忠霊塔と空知橋の落下

     昭和18年のこの日は、富良野の町を揺るがす大きな事故が起こった日でした。この事件を二人の「現場証人」、富良野駅に到着した碑身を曳行する一員であった役場職員の高松竹次、やはり役場職員で、曳行する人手を集めるため前日から当日にかけて近隣を訪ねて駆け回った岡部稔が書き残した記録を元に紹介します。(敬称略)

    <富良野神社の忠魂碑(2021年の博物館講座にて)>


    【出来事(事の起こり)】
     昭和16年12月8日より大東亜戦争(太平洋戦争)が始まり、郷土出身者の戦死者が白木の小箱に納められた遺骨として帰還することが多くなってきて、当時富良野神社境内にあった忠魂碑では納骨できず、碑前が狭くて祭典などにも不自由になってきた。そのため、勇士の忠霊を慰めるためには仰いで範とするにふさわしい忠霊塔を建立すべきであるという声が全町的に起こり、それを推進する「忠霊塔奉賛会」が設立された。

     建立場所の朝日ヶ丘では頂上を切り下げる敷地造成工事が行われ、各町内会、各部落、各種団体、小中学校の児童に至るまで大勢の町民参加して鍬、つるはし、スコップなど熱汗を流して打振るい土砂をモッコでかついで運搬した。各組が義務出役で協力するもの、反対するもの、理由を並べては時間稼ぎの連中も出て来て、世話人は大変な苦労や努力をしたものであった。そのたびに荒田九平氏をはじめ世話人の皆さんが説得に大わらわであったことを記憶している。このように全てにおいて原始的な人力の奉仕作業の中、現在の朝日ヶ丘の見事な大広場が完成したのである。

     忠霊塔の碑身および台石や附属石材などは全て茨城県稲田の御影石を発注し、碑文の揮毫は時の総理大臣陸軍大将東条英機閣下にお願いしていたが、予定より5ヶ月あまり遅れて昭和18年10月25日に富良野駅に碑身が到着した。

    【出来事(10月25日)】
     水田地帯ではどこの農家でも納屋で脱穀作業に忙しい時であったが、早速翼賛壮年団をはじめとする各種の奉仕団がかり出されてかねてから長谷川土建に発注製作させていた特製の大土そりに積み替えられた。碑身は重量3000貫(11トン余り)もあろうという御影の名石である。元々は碑身の中をくりぬいて軽くする設計であったが、製作日時が大幅に遅れたのでそのまま送られてきたという事情があった。

     初めの計画では馬2頭曳きで土そりにゴロをかけながら挽曳する予定であったが、運ぶものが戦没勇士の御霊(みたま)を祀る忠霊塔の碑身であるだけに、運搬は赤誠のまごごろをこめて町民の奉仕により綱で人力により曳行することが最もよいという意見が大勢を制した。


    <岡部稔氏>


    【現場証人・岡部稔(10月25日)】
     碑身曳行奉仕の人手動員のために私たち町役場の若手吏員達が伝令となり、市街地各町内会はもとより近郊の大沼、学田一区、二区、三区をはじめ各団体や中学校に出役奉仕請願に東奔西走した。疲れ果てて退庁したところ、当時北海道新聞富良野支局長だった立岩含さんから「今朝から貨車から碑身を積み替え奉仕した翼賛壮年団員の諸君に安着祝いと明日の激励をしたいから支局に来てくれ」と連絡があった。その頃の支局は現在のすずらん通りのビオラス喫茶の場所だった。

     支局に集まったのは15〜16人だったと記憶している。どこから手に入れたのか、厳しい統制時代には珍しい清酒を一同にふるまいながら「今日はご苦労さん、大変骨が折れたろう、明日も頑張れヨ、忠霊塔を綱で曳くなんて生涯の良い思い出になるヨ、わしもいい記事が書けるぞ」と喜んでくれた。

    【出来事(10月26日朝)】
     あけて運命の26日火曜日、朝から悪天候で冷雨が降ったりやんだりしていた。こんな天候では中止になると思ったが、雨で地面が濡れていて土そりがよく滑るから決行するという話がパッと街中に広がり、駅の貨車土場から本通りにかけては曳行奉仕者や見物人で何百人という黒山の群集であった。

    【現場証人・岡部稔(10月26日午前)】
     町役場では上司の広岡兵事係長が「大槌町長から碑身運搬の総識者として当たれと命令を受けた。本日の工程は朝日ヶ丘登り口まで何とか曳きたいが交代要員がまだ足りないから君は扇山と学田五区の各区長にお願いして至急奉仕隊員をかり出してもらってくるように」との指示で私は自転車で走った。

     途中強雨にたたかれて全身びしょ濡れになった。田中でんぷん工場についたら「やあやあ、ご苦労さん、まるで川に落ちたようにズブ濡れじゃないか早く脱いで乾燥場で乾かしなさい」と親切にビショ濡れ衣服を乾かしてくれた。そして生でんぷんの大きな塊を焼いてごちそうしてくれたが、イヤ、そのうまかったこと・・・・・今でも忘れられない美味しさであった。

     昼を過ぎて空知橋を渡って帰る途中に碑身曳行の長い行列は「ヨイショ!ヨイショ!」と掛け声高らかに橋の200メートルくらい手前まで来ていた。この分なら今日の輸送行程終点の朝日ヶ丘登り口までは3時過ぎくらいにつくであろう・・・・



    【現場証人・高松竹次(10月26日午前)】
     各町内、農村部、各団体、中学校などから伝令となった役場の若手職員によって動員された皆さんが数百名、交る代るワイショ、ワイショ、ソレ曳け、ソレ行ケと掛け声勇ましく曳きはじめた。時々しぐれが通り過ぎたが気にせずエジプトのピラミッドの大石を曳く太古の人達もこんなことをして石を運搬したんだろうなあと話し合ったりもした。

     このときの輸送最高指揮者は町役場兵事係長の広岡外吉氏であった。碑身の上に仁王立ち、赤い鉢巻きに赤襷き、赤い手旗をパッ!パッ!と振りつつ「ソレ曳け!ソレ行け!」と号令をかける名指揮振りは後年の語り草となったほど見事なものだった。

     富良野駅貨物土場から本通りへ出て直進し、現市役所前(当時は畑)の南六丁目で右折、この曲がる時がなかなかスムーズにいかず障害やトラブルも起きたがどうやら曲り、神社南側の当時の国道を何百人という奉仕の人々の合唱や掛声でワイショ、ワイショと進んできた。ここで昼食。そして運命の空知橋のたもとまで到着したのが、午後2時過ぎであった。

    【現場証人・高松竹次(10月26日午後)】
     さて、ここで大きな問題がおきたのである。なにしろ3000貫という重量だからこのまま曳けば橋が危ないという説「問題ないヤレ、ヤレ」「いや危ない、橋を補強せよ」「橋桁が老朽しているからレールを敷いてゴロをかけろ」「イヤ、安全のために人間をつけずに対岸に万力を掛けて徐々に引くべし」喧々がくがく物識り顔の議論が沸騰した。しかし物事の勢いというものは恐ろしいもので「ここまで来て何を云うか、大丈夫だヤルベシ」と付和雷同の蛮勇が大勢を制し、対岸から引き寄せるものと、そりに網をつけて直接曳くものとに別れ総指揮者広岡氏は悠然と碑身にまたがり赤旗を振り出した。

     ワイショ、ワイショ、ソレ曳けの声もひときわ高くそりは静かに橋上を第1ピーヤ(橋脚)、第2ピーヤと前進し残るは第3ピーヤと動き出した瞬間、橋桁もろとも忠霊塔の碑身は川中に転落してしまった。アッという間の出来事であった。そりに乗っていた者、網を曳いていた直進者の数十人も同時に転落、橋桁に挟まれて悲鳴をあげながら助けを求める者、押し流されていく者、泳げずに橋脚にしがみついている者、どんどん下流へ流されていく何十人かの人々、泣きわめく者、まさに阿鼻叫喚の修羅場の惨事突発に両岸にいる者は手の下しようがなく、只々オロオロと狼狽するのみであったが、なんとか気をとり直しロープを川中へ投げて流れゆく人々につかまらせ岸に引きよせて助け上げる作業がはじまった。


    <高松竹次氏>


     当時私は町の産業係であったが、予想もせぬ出来事に動揺してしまったが気をとり直し死傷者が出たであろうと直ちに役場へ走り協会病院に急報、医師と看護婦の急派を要請し、役場に保管してあった貴重品のサラシ木綿の原反を包帯代わりにあるだけ両手に抱えて現地へ駆け戻った。走る道路の途中は早くも非常サイレンや情報を知った家族や近隣の人々がゴッタ返し、群衆となって現場を見ぬうちからワアワア泣きながら走る者が多かった。私はその悲愴な雑路の中を泳ぐように息を切らせて現場へ走った。見た目に頑丈と思っていた空知橋は無残にも川中に落下沈没してすでに影も形もなく、泣き叫ぶ人々の声が秋風に一層の哀れをさそった。

     さて、橋が落ちてしまったので対岸に行くには約1キロ下流の根室本線の鉄橋を渡るしかないので(当時五条大橋はなかった)右岸土手を下流に向かって走った。途中で川面を指さして泣きながら走る婦人に追いついた「お父さんが、お父さんがあそこに流れていくヨッ!助けてッー!」金切り声をはり上げ泣き叫ぶのでよく見るとタオルを巻きつけたムギワラ帽子が一つ水泡に巻かれながらプカプカと流れている。ちょうど人が流されているようにも見えた。

     「あれはお父さんだヨッ!帽子に巻いているタオルに見覚えがあるンだヨッ、早く助けて下さい」と私をせきたてるのだ。「あれは違うヨ、帽子だけだヨ落着きなさい」となだめても聞き入れず今にも川中に飛び込もうとしたので、「ちょっと待ちなさい」と附近にあった棒切れを帽子に投げつけると帽子はクルリと回って上向きになり附着していた水泡がちぎれて消えたので半狂乱の婦人はようやく納得したというひと幕もあって対岸に行く時間に手間取ってしまった。

     ようやく鉄橋に着くと協会病院の若い看護婦さんが二人来合せたところだった。鉄橋を渡ると云ってもレールの間に幅約30センチほどの板が200メートルほど続いている。いつ汽車が来るか判らないし重い荷物を両手に下げて下を見ると、増水した空知川が音をたてて流れていて目が眩みそうになる。両脚までが震えだしているが、二人の看護婦さんは何のためらいもなく、大きな荷物を持って白衣の裾をひるがえしながら普通の道路を走るように長い鉄橋を身軽く渡って行った。

     この度胸には驚くやら感心するやら…。こっちも男だ、負けるものかと後からついて渡り出した。けれど、どうしても川の流れが眼に入り鉄橋が川上へ川上へと動くような錯覚がして恐ろしくなり鉄橋途中でしゃがみ込みそうになるのをこらえながらやっとの思いで看護婦さんの跡を追った。戦時体制下の日本の看護婦さんは天晴れな度胸だと感心したものだ(その時の看護婦さんの名前を聞いておけばよかったと今でも後悔している)。負傷者などは学田三区の二口家、野村家などに収容されていると聞いたので駈け付けた。玄関先に人々が溢れている異様な空気の中で関係者の動きがテキパキと活発であった。


    <現在利用されている「新・空知橋」の橋梁※元の空知橋より300メートルほど下流に建設された>


     負傷者が収容されている部屋の隣が本部となっていたがその部屋に入ったとたん、人々の緊張した囲みのまん中に正服のマントを着用したままの警察署長が両腕をしっかりと押さえられているのを見て思わず息をのんだ。私は瞬間不吉な予感がひらめいた。戦時下の警察官として惨事の責任を痛感し日本刀で自決をしようとしたのであった。関係者からそれは署長の責任ではなく、橋梁を十分に調査検分せず強行した当事者側の責任であるから是非理解して欲しいと異口同音に説得して、ようやく事なきを得たという、一部の者のみが知る惨事の陰の秘話である。この大事故で死者は奇跡的になかったが、負傷者は重軽傷者33人に及んだ。協会病院の医師看護婦さんの適切な処置手当てによって負傷者、入院者ともども迅速に処理されたのである。

    【現場証人・岡部稔(10月26日午後)】
     この分なら今日の輸送行程終点の朝日ヶ丘登り口までは3時過ぎくらいにつくであろうと思いつつ、役場に帰着して、ものの30〜40分もたったろうか。消防番屋の半鐘が突然狂ったように乱打され、サイレンが異様な唸り声で咆えたてた。「何事だッ!」役場庁内の者は総立ちとなった。誰かが息を切らせて飛んできた「タ、タイヘンダッ!橋と忠霊塔が川に落ちたンダッ!死人もたくさんでたゾッ!何十人もブカブカ流されているゾッ!」私達職員はショックでみんな真っ青になり、何をどうしてよいのか、とっさに判らず唖然としてしまった。

     「岡部君薬を持って走れッ!」と誰かのドナリ声にバネに弾かれたように私は畜産組合の上原新一さんと薬品保管の戸棚から手当たり次第に薬剤を夢中で空箱に詰め込んで現場へ駆け出した。

     負傷者の大半は学田三区の二口さんと野村さんに収容されているという話だが、学田三区へは橋が落ちたので遠廻りして根室本線の鉄橋を渡らねばならない。ゴッタ返しの雑踏を縫うようにして漸く二口さん宅に駆け込み「薬を持ってきましたよ」と対応に出た人に渡した。ところが部屋へ持って行ったと思ったら別の男が出てきて「なんじゃいこれは、この馬鹿ッ!これは馬の薬じゃねえかッ、ケガをしたのは人間様だゾッ!」

     私はへたへたと座り込んでしまった。周章狼狽していたので畜産組合保管の家畜用の薬剤を詰め込んで来てしまったのだ。一体全体今日は何と云う不運な日なんだろう。昨日、道新支局で26日は生涯で最も良い日になると祝盃をあげたのに…。しかし、私だって雨にたたかれながら一生懸命走って来たのに、ご苦労のひと言ぐらい云ってくれてもいいじゃないかと思うとカーッと腹が立ってきた。「馬だろうが、ブタだろうが人間様にも効くはずだッ!よく調べてから文句を云ってくれッ!」とやり返した。その人は飛び上がるように驚いて奥へ入ってしまった。


    <翌日の緊急町議会による議決文書>


    【出来事(引き上げと建立)】
     こうして、開町以来の降って湧いたような大惨事の勃発に誇大なデマや流言が乱れ飛び上を下への大騒動を演じたが、神仏のご加護のお陰で死者はなかった。しかし、重軽症者33名という人身事故を出したので、町はその翌27日、緊急町議会を招集して、この事件の対応を議決して応急処置をしたのである。

     川中に沈んだ碑身は11月下旬になって第七師団の工兵隊の協力のもとに長谷川土建により引き揚げられ再び奉仕団の人々によって10センチばかりの積雪の道をヨイショ、ヨイショ、と曳行され無事に朝日ヶ丘公園広場に到着した。(この時の土そりは昭和50年頃まで広場の片隅に置かれていた)ここで一冬を越した碑身は、昭和19年春に組立され6月15日に盛大な招魂祭が執行された。



     こうしておもいがけない経過をたどり、富良野町市街の西南の丘上に夕陽を浴びて空高くそびえる忠霊塔のふところ深く若き勇士等の英魂は、朝な夕な泉々淙々たる空知の清流を母の子守唄として安らかに眠ることが出来たのである。


    <現在の平和記念塔(2021年の博物館講座にて)>


    【出来事(その後)】
     戦後になって占領軍から日本国民の精神的基幹であった教育勅語、全国小中学校の御真影奉安殿、宗教の国家管理、忠霊塔などをすべて撤去すべしとの言明を受けた時、忠霊塔建設主唱者であった荒田九平翁は「これではまるで昔のキリシタン弾圧の踏み絵ではないか。国破れたりとは云え美しい山河が残った以上は我々日本人は祖国を平和に再建するために忠霊塔を撤去せず、文字を削り取って『平和祈念塔』とすれば占領軍に文句を云われることはない」と喝破された。その卓越した慧眼に賛同された渡部俊雄氏、宮川理三郎氏等が「平和愛生会」を組織して忠霊塔の文字を削り「平和祈念塔」に改め、毎年6月15日に戦没者、公没者の御霊を祀る平和祭が今日に続いているのである。


    <現在の朝日ヶ丘公園と「新・空知橋」>


     以上が、『続・ふらのこぼれ話』(1984年 富良野市郷土研究会)に収録された2つのエピソードを元につづった「忠霊塔と空知橋落下事件」です。高松氏・岡部氏の著述の意図を損なわないように注意しましたが、二つの物語を複合する過程で多少の改変をしたことをお断りいたします。原文をお読みになりたい方は、ぜひ「続・富良野こぼれ話」P210 第35話「忠霊塔と空知橋落下事件」・P219 第36話「受難の忠霊塔」をお読みください(当館で購入するほか、市立図書館などで借用できます)。


     
    投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。