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    読みもの・コラム : 12月22日 初めてのテレビ(コラム「今日はなんの日」)
    投稿日時: 2021-12-22 6:00:00 (343 ヒット)


    12月22日
    初めてのテレビ

     昭和27年8月22日から31日まで10日間、富良野小学校、富良野町営授産場、児童公園(現末広町)を会場として開町50周年記念の平和博覧会が開催されたとき、富良野小学校会場におけるテレビの実験放送は異常なほどの人気を呼びました。白黒式6メガ走査線525本という実験テレビに映る映像に驚き「こんな素晴らしい科学の進んだアメリカに戦争仕掛けるなんて日本も馬鹿なことをしたもんだ」という人もいました。

     
    富良野で開かれた平和博覧会(記念絵葉書より)


     この実験放送で人気を呼んだのは西川社中(華道)の故西川千代子先生。撮影機の前でコスモスを活けられ、その楚々たるコスモスの風情を即詠で短歌一首にまとめ、朗々たる美声で朗詠される姿がブラウン管に映し出されるや数百の観衆の大拍手を浴びました。


    第二会場電気館(実験放送の場はここと思われる)(記念絵葉書より)

     こうして文明科学の粋をあつめたテレビに魅せられた町民は札幌テレビ局開局近しの情報に何とかしてテレビを購入したいものと念願をしていました。町内市街地の各電器商にもテレビが店頭に陳列されはじめ、道行く人々はこの物々しいデラックスで重厚なテレビを羨望の眼でいつまでも立ちつくして眺めたものでした。

     NHK札幌テレビ局が昭和27年12月下旬電波を放送すると発表しましたので、山崎電器商会(当時いわさ商店左隣)は早速富良野町の先端を切り、アンテナを屋上に立てました。山崎氏は先ず磁石を持って屋上で指向性電波をキャッチできるようにしたが確信がなく暗中模索。「何だいあれは?」「妙なもんが立ったゾ!」「電気看板旗でも吊り下げるんだべ」と師走の街を行き交う人々はいぶかりながら眺めました。山崎氏は毎日毎日テレビのスイッチを入れてはまだか、まだかとあせっていました。


     12月17日、あきらめ顔でスイッチを入れたところ「やったッ!出たゾ、出たッ!」と飛び上がって叫びました。見よ!テストパターンの模様が鮮やかに映っているではないか!近所の人々が飛んできていつまでも感慨無量の面持ちでこのテスト・パターンの画像に見入っていました。これが富良野における受信第1号でした。

     富良野市の購入設置の第1号は三日月食堂の青崎繁雄氏。「人間すべて珍奇なものに魅力を感じ、希少価値のもの程高く評価されるものだから商売に利用できる」「テレビは万人憧れの待望品である、人の後から設置したのでは希少価値も薄れ宣伝効果も上がらない」との思いの元、17インチテレビを当時20万円で山崎電器商会に発註設備しました。


    三日月食堂

     クリスマスも近い12月22日(※編注 原文にはないが昭和31年と思われる)、NHKテレビ札幌局放送開始によって世紀の寵児テレビを見んものと、ワンサと三日月食堂へ人々は押しかけました。一杯60円のラーメンで3時間もテーブルを占領する客が続出、何も食べずに見る客は立ちん棒して黒山のようになり食堂の窓は鈴なりの「のぞき見」の人だかりが現出、三日月食堂は連日人海戦術の波状攻撃で正に破天荒のラーメンブームを捲き起こしテレビの代価などまたたく間に償却してしまいました。当時の富良野新聞は三日月食堂における実況を5段抜きのトップ記事で報道したものです。

     しかし一般家庭の普及は仲々で14インチ1台15万円を超える価格ではまだまだ庶民には高嶺の花で手が届きませんでした。何しろ大学を卒業して富良野町役場に奉職するとしても初任給6000〜7000円くらいの時代でしたからこの昭和27年には一般家庭の屋上にはアンテナは立ちませんでしたが、翌28年になるとポツン、ポツンと立ちはじめました。それはあたかも富裕階級のシンボルのように下界の庶民層を昂然と見下ろしているに過ぎませんでした。

     
    ※白黒テレビはテーマ8「戦後のあゆみ」に展示されています。

     世の親たちは子供にテレビをせがまれて苦労したもので、子供達はテレビアンテナのある家の子にお世辞を使って友達になり勉強を放ったらかしにしてテレビに夢中になり出した。各学校のPTAでもこの問題で話題になったがどうすることも出来ず、大人達も仕事を怠けて終日テレビに見入り日本中がこの話題で持ち切り一億総白痴化するものであるとマスコミは警告し、テレビ普及浸透期における飛んだ悲喜こもごものブームでありました。

    ※この記事は『続・ふらのこぼれ話』(1984年 富良野市郷土研究会)P145 第25話「テレビとラジオのはじまり」(操上秀峰)を元に記述しました。より詳しい話を知りたい方はこちらをお読みください(市立図書館などで貸し出ししています)。


     
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