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    歴史と郷土芸能 : 4 富良野原野の開拓
    投稿日時: 2006-1-10 12:50:00 (4529 ヒット)


    中村千幹氏










    1896年(明治29)、北海道庁による富良野盆地の殖民地区画測量が行われ、その翌年にはフラヌ原野の貸下げが告示されました。1897年(明治31)、福岡県出身の中村千幹が地元の代議士佐々木正蔵の名義で、土地の貸下げを受けて筑後組合農場の管理人として扇山に入地しました。これが富良野市の開拓のはじまりです。



    明治38年 本間牧場の開拓






    富良野市域の開拓地は資本家による大農場や札幌農学校附属第八農場(後の北海道大学)・東京帝国大学農科大学演習林(現在の東京大学北海道演習林)のような大学附属農地、帝室林野局が管理する皇室の御料地によって大部分が占有され、小資本の自作農地は僅かばかりでした。多くの移民たちは大農場の小作人として土地を借り受け、鬱蒼たる原始林を刈り分けながら奥地へと開拓していきました。


    下富良野村戸長役場






    1900年(明治33)、十勝線(現在の富良野線)の下富良野〜鹿越間が開通すると、下富良野駅が本通りの突当りに設置され、市街地が形成されました。
    鉄道の開通は入植者と物資を送り込むと同時に、開拓地の農産物・木材などの生産物を運び出す開拓の原動力として活躍し、次第に入植者が増えていきました。
    このように富良野盆地の開拓が進展した結果、1903年(明治36)、現在の上富良野町から占冠村まで行政区域が及んでいた富良野村は、上富良野と下富良野の2村に分割され、同年9月1日、下富良野村戸長役場が市街地に設置されました。


    兜谷徳平氏












    富良野市の米作りは1899年(明治32)、扇山の操上貞次が試作して僅かな収穫を得たのがはじまりです。しかし下富良野村北部から中富良野村の低地は泥炭地であるために、1917年(大正6)には兜谷徳平が中心となって排水溝工事により土地を乾燥させる事業を、さらに1921年(大正10)からは布部から上富良野村に至る用水路工事が行われました。これを契機に、富良野盆地は美田を誇る米作地帯に変貌を遂げることになりました。

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